2005年度ヤンゴン・スピーチコンテスト入賞者スピーチテキスト

 

(*スピーチ原稿は、出場者の書いた原稿を原文のまま掲載しています。)

 


 

第1位

 

「ビニールの袋」

ニン ワィッ イー

 

私たち人間は、幸運にも自然の恵み豊かなこの世の中で生きる機会を得ました。しかし、恵まれたこの環境を守るのも汚なくするのも私たち人間で、環境問題は山ほどあります。私はたくさんの問題の中からビニール袋についての問題のことを話したいと思います。

 ある日の朝、私がうちのベランダで勉強していると、からすが一羽、肉とビニール袋をくわえて運んでいるのを見つけました。それから、隣の家の屋上に止まって、肉を食べ始めました。そして、肉といっしょにビニール袋も食べようとしたのです。私はそれを見て、びっくりして、そのからすに向かって、「食べるな!食べるな!」と、叫びました。そうすると、からすは私を一瞬ジロッと見てどこかに飛んで行きました。からすがビニール袋を食べると大変なことになると思いました。

 そのことは一見、大きな問題ではありませんが、よくよく考えてみると深刻なごみ問題が背景にあると思います。どの人々はどうしてごみをきちんと捨てないのでしょうか。人々がきちんとごみの処理をしないせいで、からすがビニール袋を食べてしまうといった事態になったのだと思います。このからすのことだけではなく、ミャンマーのごみ問題は深刻だと思います。

 今日、市場やデパートやスーパーで買い物をする時、品物をビニール袋に入れます。うちへ帰るとそのビニール袋はただのごみになってしまいます。家から出るごみを種類によって区別すると、ビニール袋のごみが一番多いと思います。

 ビニール袋は便利ですが、リサイクルすることができません。ビニール袋は土や水にとっても危ないそうです。なぜならば、土の中にあるビニールはけっして腐らないからです。ビニール袋だらけの土地には花も木も植えられません。それに、川や海の中にビニールが流れていると、魚はえさと間違って食べてしまいます。そうすると、その魚は死んでしまうかもしれません。花や木、魚達にとっても、ビニール袋のごみは命をおびやかすくらいに危険なものです。

 私の国でビニール袋を使い始めて20年間ぐらいたつと思います。その20年間の間にビニール袋のごみがどんどん多くなってきました。このまま増えつづけると、将来ビニール袋のごみ問題はどんなに深刻になっているのか、考えるだけで恐しいです。

 ですから、私は伝えたいのです。みなさん、この問題が少しでも少なくなるように考えてみて下さい。買い物をする時、自分で袋やかごを持って行くなど、簡単にできることからでもいいので始めて下さい。ビニール袋の代わりに、リサイクルできる紙の袋や布で作った袋を使うなど、ほかにも工夫できることがたくさんあります。ビニール袋のごみも決められた場所にきちんと捨てて、自分達の環境を守りましょう。私達一人一人がごみ問題の深刻さに気付き、ごみを減そうと意識すること、それが今、一番大切なことだと思います。(おわり)

 


 

第2位

 

「おばあさん」

エィ ティ ティン

 

私は、5人兄弟の下から2番目の子供です。私達兄弟には、孫と全然気が合わない祖母がいました。祖母は私の父の母で、父は一人っ子です。それで、祖母は父をとてもかわいがりました。祖母は地方出身ですが、父が生まれてからヤンゴンの郊外に移って住んでいました。その後、父が結婚して別々に住むようになり、祖父もなくなったので祖母は一人きりで暮らしていました。

 私が中学生になった時、祖母は体を壊して私の家族と一緒に住もうとしました。父は私達兄弟5人に「おまえたちのおばあさんを、うちに連れてきたい。」と、言いました。私達の家にはすでに母方の祖母もいましたが、父の他に親類がいない祖母が体を壊しているのに、反対することはできませんでした。しかし、祖母が来て何ヶ月経っても私達兄弟と祖母とは全然親しくなれませんでした。何が悪かったかと言うと、祖母が現代の若者達の言動を全く理解してくれないということでした。

 祖母はしつけに厳しい人です。それにとてもきれい好きな人です。うちにいる時も出かける時もタナカを頭の先から足の先まで塗っていました。食事も、健康のためにとても気をつかっていました。私達兄弟は好きなものを好きなように選んで食べます。その時祖母はいつもぶつぶつ言いました。だから、あまり一緒にご飯を食べませんでした。たいてい母方の祖母と一緒に食べました。私達は母方の祖母とは、父方の祖母がやきもちをやくほど親しかったのでした。

 うちには祖母に話しかける人は一人もいませんでした。当時父はいつも仕事で忙しくて、私達とも話ができませんでした。だから祖母は、午後はいつも近所の家へ行って、そこでお喋りをしていました。私達は近所の人達ともあまり親しくなかったし、そうやってお喋りするのも好きではありませんでした。このように、祖母と私達は違うことばかりで、祖母と孫との関係はどんどん冷たくなってしまいました。

 今さら祖母と仲良くしたいと思っても絶対にできません。6年前に祖母は亡くなってしまいました。最後の時まで問題は解決しませんでした。血がつながった本当のおばあさんなのに、仲良くなることはありませんでした。祖母が亡くなってから、私はとても反省しました。祖母も年を取ったことですし、「自分達がもう少し我慢していたらよかった。」と思いました。祖母の寂しさに、今さらながら気付いたのです。

 日本ではおじいさん、おばあさんと孫の関係はどうなのか、私は知りません。ミャンマーではほとんどの人は勉強とか、仕事とか、色々と忙しくなって、年配の人達を無視する傾向があります。私は、私の祖母との経験を反省して、これからは年配の人達を大切にしようと心に決めました。おじいさん、おばあさんは、私達の人生の先輩です。みなさんも、ご自分のおじいさん、おばあさんを大切にしてください。(おわり)

 


 

第3位

 

「親の愛」

ソーウッモンキン

 

私の家族は全員で五人です。お父さん、お父さん、お母さん、お姉さん、私、そして弟です。私達はモン州の海岸のそばにある、小さな町に住んでいました。父は漁業会社をたてて仕事をしています。母は父の仕事をてつだっています。私達兄弟はおばあさんとおばさんに、育てられました。私達の学校は九時から四時まででした。私達が学校から帰ったとき、父と母がいないこともよくありました。ときどき、晋也まで働くこともありました。ですから、私達はおばあさんが話してくれた昔話を聞いてねることが多かったです。
 行事の時にも、他の子供達のように親といっしょに遊んだことはありませんでした。おばさんといっしょに行かなければなりませんでした。私の親の仕事は自営業なので休みの日はありません。私は、父より母と仲がいいです。私は母に似ているとよく言われます。父とあまり仲良くないのは父が私を愛していないと思ったからです。父は私の姉のほうをもっと愛していると思います。ですから、父と私の関係はしだいに冷たくなっていきました。
 私が十才の時のことです。その時、私は中学校一年生でした。ある日、私はいとこの家へあそびに行きました。すると父は、「あつい日に勝手に行くなと言ったのに。」と言って私をなぐりました。私は一度もなぐられたことがなかったので、とてもショックでした。私の心の中で、父は本当に私を愛していないと信じるようになりました。そのようにして、月日が流れました。
ある日、父の本心が分かる出来事が起こりました。いつのことだったか正確に覚えていませんが、私が高等学校を卒業してからのことでした。父が姉と私にバイクの乗り方を教えてくれました。私が乗っている時にバイクが横に倒れました。父があわてて走ってきて、私を起こしました。父は普段はけちなのに、彼のバイクが壊れたことに対しては何も言いませんでした。私がすりきずだけで済んだのを「よかった。」と言いました。その時、私は確かに父の愛を感じました。父は本当は私のことも大事に思っているんだとわかりました。目からうろこが落ちたようでした。
親の中には、自分の子供を愛していると言うことを、子供に伝えない親もいます。しかし、それはよい親子関係とは言えません。親は、自分の愛情を子供達が分かるように示すべきです。そうすると、子供は親を信頼して、人を愛する気持ちを自然に学びます。親と子供が仲良く楽しく暮らせて、それは世の中の平和にもつながると思います。親の愛を完璧に得られない子供は愛を知らない冷たい人間になりやすいです。ですから、私はいつか自分が母親になったら、自分の子供に愛情をたくさんそそいで、何でも話し合って、仲良く楽しく暮らしたいと思っています。みなさんは、どんな家庭をきずきたいですか。(おわり)

 

 

 

 

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